| 投稿者名:五味院長 タイトル:自分のことですみません 
               
   てぃんさん。   今日の朝、眠気まなこで、パソコンのスイッチを入れあなたの投稿を見て、わたしは涙が出るほどうれしくなってしまいました。 わたしは、ことさら真剣になっているつもりはなく、ごく普通にしているつもりですが、てぃんさんのように思ってくれる人がこの地球上にいるということは、本当に励みになりますし、わたし自身が癒されます。 わたしは、いつもこんな風に考えています。   人はけっして一人だけで幸せにもなれないし不幸にもなれません。人は、「他人」がいることでしか「自分」を保つことはできないからです。
 逆に言えば、「他人」も「わたし」がいるから、他人なのです。
 つまり、人間ほど「お互い様」の関係にあるものはないのです。
 それが、人間関係であると思っています。
 
   この掲示板の返答で、ことさら真剣になっているつもりはないのですが、もしそれが質問された人の癒しになったとしたら、そのことがわたし自身の癒しでもあるのです。 このように考えたのは、若いころの身近な人や友人の「死」に直面したことにも関係があるかもしれません。   ある友人は、もうこれ以上悩めないと自ら自分の命を絶ちました。別の友人は、家族のためにもう1年でも生きたいと願いながら病魔に命を絶たれてしまいました。
 そのような経験がわたしに「悩み」とは一体何だろうという疑問を与えました。悩みから命を絶つ人もいれば、悩むための時間が与えられない人もいるのです。   死んでしまって他人との関係を断ち切れば、確かに悩みはなくなります。先ほど言ったように、人は自分一人では悩まないからです。 人は、他人との関係性の中でしか悩まないからです。   でも、そのようなな悩みの解決の仕方は間違っています。なぜなら、その人の悩みは決して自分だけのものではないからです。
 自分のものなら捨ててしまっても勝手です。でもその人の悩みは、他人とのかかわりでしかありえないのですから、勝手に捨てることなど許されないのです。
 
 人間としてこの世に生まれてきたからには、その人には、その人の悩みを解決しようと努力する「定め」があるのです。   しかし、問題は簡単ではありません。人は、悩みというものを決して自分一人では解決することは出来ないからです。それは、悩みは、自分一人で作ったものではなく、「人」から与えられものだからです。
 人から植え付けられた悩みの解決には、皮肉なことに必ず「人」が必要になるのです。
   このような悩みの本質を理解してくると同時にわたしは「臭いの治療は悩みの治療と同じこと」も理解してきたのです。そして、仮に悩み解決に「人」が必要なら、そのような「人」のひとりになりたいと思うようになりました。
 そのような「人」のひとりになることで、自分も癒されたいと思うようになりました。
 わたしは、別に意識して真剣になっているわけではないですが、もし、てぃんさんがそのような印象をもたれたとしたら、以上のようなわたしの体験的フィロソフィーを感じていただいたのではないかと、本当に光栄に思います。
   長々と自分のことばかし話してすみませんでした。でも、本当に力になりました。
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